名医がいた。
どんな難病でも治すことができた。
彼はまた多くの子どもを持つ父でもある。
彼の旅行中に、子どもたちが何かに中毒して、病み苦しむ不幸が起きる。
折りよく、そこへ父が旅から帰って来る。
父の姿を見た子どもたちは、苦しい中からも喜んで父を迎えて、「私たちの苦しみを早く治してください」と頼む。
父の良医は早速、飲みたくなるように、見た目にもきれいで、よい香りのする薬をつくって「さあ、早く飲みなさい」と子どもたちにすすめる。
症状の軽い子は、すぐに飲んだので直に治ったが、重症の子は、毒が体に深く入り込んで、心も平静をを欠いているので、薬の色や香りが気にいらず服薬する気になれない。
良医の父は、どうしたら可愛い重患のわが子たちが薬を飲む気になるだろうかと思い悩む。
ついに一法を講じて、子供たちに言う。
「私もこんな老人だから、やがて死ぬだろうが泣き悲しむな。ここに私が調合した薬を置くから、飲みたくなったら飲むがよい」と言い残して、彼は遠い旅に出る。
そして旅先から、人をして「父が死んだ」と偽りの知らせを送る。
父の死の報を聞いて、子どもたちは歎き悲しみ、父を恋い慕ううちに、父の最後の言葉を思い出して、父が遺してくれた薬を飲む気が起こり、ようやく病いが癒える。
父は、この報を聞いて家に帰り、元気になった子どもたちを見て喜ぶ。
松原泰道「法華経入門」より
これは、お釈迦様の説く法華経の中の「良医病子の譬え」です。
ここから「うそも方便」という言葉が生まれています。
お釈迦様は「こうすべきだ!」という教え方はされませんでした。
たとえ話をしてお弟子さんに考えてもらう方法をとってみえたようです。
物語ですから人それぞれ受け止め方が違います。
それはそれでよかったのだと思います。
そして、物語の中にある真理をみつけていくのです
お釈迦様が亡くなってから二千何百年も経つ今もなお、
多くの人々は病みもがき苦しんでいます。
このたとえ話が本当なら、
良薬はいつでも誰でも服用できる場所に置いてあります。
そして、その良薬を飲む人、飲まない人、良薬があることを気が付きもしない人とさまざまです。
そして、お釈迦様は亡くなってはいないということにもなるようです。
このように仏教はわかりやすい物語やお弟子さんとのやりとりでできているようです。
そんな風に仏教やお寺さんをみると参拝もおもしろくなりますよ。
晩秋のお寺めぐりの旅なんぞはいかがですか?