一人の若者がいた。
彼は何かの理由で、父のもとを飛び出して、長い間、放浪の旅をつづけている。
彼は、今は見るかげもない貧しい乞食(窮子)になっていた。
彼の父は、わが子を探し旅に出るが、たまたま、旅先での商売に成功して金持ちになり、その地に居つき、立派な邸宅を構えて住むようになる。
しかし、家出した息子を、思いわずらわぬ日は、一日もない。
彼は口にこそ出さないが、心中で(私は、巨万の富を持ちながら日ごとに老いていく。子どももありながら、どこにいるかわからない。いま私が死んだら、この財産も人手に渡ってしまうだろう。あの子がいてくれたら私も安心するのだが)と悩みつづける。
ある日のこと、当の息子は、父が住む町とも知らずにさまよいたどりつき、父の豪華な邸宅の前を通り過ぎる。
父は門前で大きな椅子に腰掛け、多くの人に取り巻かれて商談をしていたが、若者と長者の視線が出会った。
若者は思わず身をふるわせる。
そして、(この長者は何となく恐ろしい。きっとこの国の王か、あるいは最高の実力者であろう。こんな人の目にとまったら、奴隷にでもされてしまうにちがいない。早いところ自分の性に合う貧民街を探そう)と急いで豪商の父の前を走り去っていく。
豪商は、いち早く、彼が自分の息子であることを知り、使用人に後を追わせて連れ戻させる。
捕らえられた息子は「私はないも悪事をした覚えはない」と大声をあげて泣き叫び、恐怖のあまり、気を失って倒れてしまう。
父は、やむなくこの貧児を解放す。
彼は喜んで貧民窟へ一目散に突っ走っていった。
父は何とかして貧児を呼び戻そうとして、まず二人の使用人を、貧民に偽装させて彼に近づけさせ、「たくさんの賃金がくれるところがあるから、おれと一緒に来いと誘え。彼は卑屈になっているから、よい仕事だというと、また恐れをなすにちがいないから、われわれ二人と一緒に、ある富豪の邸で汚物の清掃をするのだと巧に誘え」と指示をする。
貧児は、そのすすめに従って、富豪の父の邸宅の側に、粗末な小屋を建てて住み込む。
父は最愛のわが子が、父とも知らずに恐れおののき、汚物を汲みとる姿を見て、あわれに思うがどうにもならない。
恐れおののく息子を、父はいかに導いたか。
一日、富豪は、彼が恐れないように気をつかい、着ている服を脱いで汚れた衣服に替え、わざと泥で手足をよごして貧児の側に近寄って、彼に、
「お前はもうよそに行くな。一生ここで働くがよい。特別な給料も与えよう。お前の欲しいものは何でも要求しろ。ここにわしの着古しの衣類がある。わしに代わって、お前に着てほしい。ぼんやり立っていないで、わしの体の泥を取っておくれ」などと、じゅんじゅうと話しかける」
長者は言葉を続けて、
「若者よ、わしを父親代わりにするとよい。わしは見るとおりの年寄りだし、お前はまだ若い。それに、お前の仕事を見ていると、お前には悪意も、不正も不誠実も、傲慢も見られない。また、かつてねこかぶりをしたりしたこともないし、これからもしないにちがいない。お前には、他の下男たちに見られるような欠点は、何一つ見うけられない。わしは、お前がすっかり気に入った。お前は、わたしにとって実子と同じだ・・・」となだめたり、誉めたりして彼を励ますのである。
それからは、富豪は彼を”わが子”と呼んだ。
貧児は、よろこぶ反面、なお、「自分は雇われ者の若僧にすぎないのだ」との卑屈な思いは容易には捨てられず、相も変わらずあばら家に住んで、汚物掃除の仕事を担当しつづけた。
どれだけの時間が経過しただろうか。
やがて富豪の死の時期が近づく。
彼は、それを意識して貧児に巨大な財産の管理を命ずる。
貧児は、管理者になるが、すこしの野心も欲望も起こさない。
相も変わらず、例の小屋で不満なく生活している。
富豪は、自分の臨終がで迫るや、貧児を枕元に呼び、土地の有力者を集め、その席でこう宣言する。
「みなさんお聞きください。この子は私の実の子です。私は、この子の実の父です。この子が私のもとを失踪してから、数えて五十年もたって、ようやく父と子が出会えたのです。私の財産はすべてこの子に与えます」と。
貧児は富豪の言葉に驚いて「私はもともとそんな気持ちなど少しもなかったのに、いま、この宝が自然(じねん)に私の掌中に収まった」と気づいた。
松原泰道「法華経入門」より
お釈迦様は、「こうしなければならない」という説法はされませんでした。
そのかわり、お弟子さんの前でこのようなたとえ話をしました。
お話そのものは、たとえ話という方便ですから一人ひとり又いつの時代にも通用します。
だから、2500年昔でも現代でも誰にでも、新鮮な話・的を得た話としてアレンジができます。
そこで、自分流にアレンジしてみました。
「自分の可能性に制限をしなくていいんだよ。自分には仏性という無限の力があるんだよ。仏性は無限の力があるんだ!それを誰もが持っている。リストラや病気でつらい時でも自分を卑屈に追い込むことはしない方がいいんだよ。卑屈な心では、仏性の力を使うことができないから。仏性の力は外にはないんだ!自分がすでに持っているんだ!君にできることはただ一つ、自分が持っている仏性の力を使うことだけだよ」