南宗寺(なんしゅうじ・・・堺市南旅篭町)には、徳川家康公のお墓があります。
私たちの習った歴史では、家康は大阪冬の陣夏の陣で豊臣氏を滅ぼし、駿府で院政をしきます。そして翌年にその駿府城にて死去したことになっています。
ところが、ここ南宗寺には、家康の墓があり、屋根瓦の紋どころは三つ葉葵になっていて、
家康公がここに一時、葬られたであろう伝説も残っています。
その伝説とは、大阪夏の陣、天王山茶臼山の戦いにおいて、真田幸村軍勢の果敢な奇襲にあい、家康軍は馬印まで倒される事態にまで追い詰められ、家康は命かながら網代駕籠(あじろかご)に乗って堺に逃げることになる。後藤又兵衛は家康の籠だと察知、馬に乗ったまま籠の屋根超しに槍で一突きした。手ごえがあったが、籠の中の家康は、自ら槍を抜き取り、着物の袖で血を拭き取ったので、又兵衛が槍を見た時には血がついていなかった。その所作の見事さに又兵衛は、武士の情けとばかり、家康であることを確かめず、そのまま籠を見過ごした。堺に着いた家康はすでに息絶えていたというお話です。
歴史は、勝者によって作られていますので、事実はこちらなのかもしれません。
もし、家康がここで亡くなったと知れ渡ったならば、徳川軍に着く軍の士気が下がるはずですから、
総大将の死は何としても隠すことになるのは当然です。
坐雲亭の中には、写真のような木板があり、次のように記されています。
征夷大将軍源朝臣秀忠公 元和九癸亥年七月十日 當山 御成
征夷大将軍源朝臣家光公 同年 八月十八日 當山 御成
大阪夏の陣から8年。秀忠公は、将軍職を降りることを報告、一ヶ月後に家光公は将軍職に就くことを報告しに、家康公の眠る當山に来られたのではないかと思われます。
家康公のお墓
卵型の墓石の横の石板には「無銘ノ塔 家康サン託ス 観自在」と刻まれています
(屋根に槍で突かれたらしき穴がある)