美濃路大垣宿は、辻の多い複雑な路地と何重にものお堀で囲まれた要塞都市です。
天下太平の世となった江戸時代は、十万石の城下町として発展してきました。
大垣城由来
大垣城は古く応仁年間には東大寺城と呼び、当時の城主は大井荘のうち石包名(いわかねみょう)という地域の代官職をしていた大垣氏であったようです。そこでこの城を大垣城というようになりました。その後、天文四年宮川安定が城郭を築き永禄二年大垣城主氏鉄ト全が城郭の建築工事をほどこしました。
天正十三年九月、豊臣秀吉は一柳直末を大垣城主として天守閣の造営を命じました。この工事は天正十六年七月になって完成し、その後改修を経て、以来この天守閣は四層四階建て総塗りこめ様式で大変優美な城として歴史のうえからも貴重なものでした。
昭和十一年国宝に指定され、郷土の博物館として親しまれましたが、昭和二十年の戦災で惜しくも焼失しました。その後お城再建の気運が高まり昭和三十三年五月着工、翌三十四年四月昔のままの姿で竣工したのがこの天守閣です。
大垣城は、牛屋川の天然の外濠にとりいれた要塞堅固な平城で、天文4年(1535)宮川安定によって創建されたと伝えられている。
慶長5年(1600)関ヶ原合戦では、西軍の本拠となり壮絶な攻防戦を繰り広げられたが、戸田家が入城してからは。歴代藩主と共に天下太平の世を謳歌した。
先の戦災で惜しくも天守閣を焼失したが、現在城跡一帯は市民の憩いの場として親しまれている。(大垣教育委員会より)
関ヶ原合戦の時「おあむ」は父山田玄暦たと西軍三成勢に属し大垣城にこもっていた。落城不安がつのるある日、東軍から矢文が届き「玄暦は家康様手習師匠であったので逃す」と伝えた。「おあむ」は父母と西堀端の松から掘のたらい舟に乗り移り西岸に上陸、無事に逃れた。そのうちその松を誰言うとなく「おあむの松」と愛称した。昭和の大戦直前枯れたが植え継ぎ青年の樹とし「二代おあむの松」と命名した。
この出来事は、自叙伝「おあむ物語」として残されている。
http://yoshiok26.p1.bindsite.jp/bunken/cn14/pg430.html
おあむ物語に因んで、大垣市観光協会では、たらい舟遊覧を期日限定で行っています。
大垣市観光協会HP
お堀は三重四重になっていた優美な城郭でしたが、現在は外掘の一部を残すのみです。
常盤神社(戸田家歴代藩主を祭神として祀られている)
戸田公入城350年を記念して建設された武家屋敷風の建物で、歴代大垣藩主戸田公の顕彰を中心に、郷土大垣の先賢を偲ぶことができます。また、日本庭園には樹齢500年を超す見事なサツキの盆栽などがあります。(大垣市HPより)