名護屋城へ行きました。
名護屋城は築城から7年間、日本本土における朝鮮出兵のための軍事的政治的中心でした。
秀吉が天下統一を果たした時代、なぜ朝鮮出兵が行われたのでしょうか?
通説では、「耄碌しつつある秀吉が天下統一を成し遂げたことに満足せず、更に大陸への覇権意欲をむき出しにして、諸大名に強権をふるって、二度に及ぶ無謀な朝鮮出兵をさせた。」ということになっています。
私もそのようなイメージのドラマを何度か観た覚えがあります。
しかし、それらのドラマで植え付けられた歴史観は、
ブログ「ねずさんのひとりごと」などを読んで一変することになったのです。
(名護屋城に残る石垣)
ブログらから得た自分の解釈を少し長くなりますが書きたいと思います。
当時の日本を取り巻く世界情勢を的確に把握していた秀吉政権は、
日本軍の何倍もの兵数を持っている明国及び李氏朝鮮連合群が、
怒涛のように日本本土に攻め寄せる可能性を危惧しました。
荒れ狂った大軍を日本本土で迎え撃つことになれば、
たとえ精鋭日本軍といえども国民を完全に守り切ることはできず、
相当な犠牲を強いることになります。
過去に起きた「刀伊の入寇」や「元寇」からも学習済みです。
それゆえ、国民を守ることが使命の日本政権にとって、
戦場を国内に持ち込まないことが優先されるべきことであったのです。
秀吉は、諸大名に相談を持ち掛けました。
そして遠く、みちのくの伊達政宗までもがその意を組んで秀吉に追従しました。
では、なぜ大軍が日本に押し寄せる可能性があったのでしょうか?
その理由は、アジアをも植民地化を目論むスペイン帝国の存在でした。
総督府をフィリピン・ルソン島に置いていたスペイン帝国は、
アジア征服において、残すは日本と明国のみになっていました。
スペイン帝国がどのようにして植民地を増やして来たのか?
最初はわからなかった秀吉も徐々に彼らの手口を知ることになります。
その手口とは先ず、宣教師をターゲット国に送り込むことから始まります。
めずらしい宝物などを首長に贈り、
首長と仲良くなると良いことばかりを並べたて、交易と布教の許可を提案します。
一旦、交易と布教が許されると、交易や布教活動は一気に活発になります。
大量の人物金に混じって知らぬ間に無法者(やくざ者)も入り込み、
最後には暴動が起きるようになります。
首長は鎮圧に乗り出しますが、抑えきれるはずもなく、
鎮圧のための軍隊を当該国に要請します。
わざと暴れさせて抑えるという、やくざ社会のマッチポンプの技法です。
そして、首長の交代があるたびに主導権を握ってゆくのです。
一方、布教活動では、民衆の中にカトリックの一神教の価値観が植え付けさせます。
罪悪感を抱かせられ、救われるための免罪符を求めさせるようにします。
かつて持っていた国や首長への忠誠心が薄れ、
神託を語る祭司の言葉が絶対的なものになってゆきます。
このようにして、ばい菌が体内に巣くうように、人も国を弱体化させます。
そして、とどめは武力です。
敵対国に連合を呼びかけ、最後は武力で乗っ取ります。
もし、スペイン帝国が明国と組んで日本を総攻撃したら、
精鋭日本といえど、大きなダメージを食らうでしょう。
乗っ取りを繰り返してきた大陸の歴史の中で、
「一緒に日本を乗っ取りましょう」と強国からの誘いがあれば、
当然、便乗してくるのがかの国の史実であり、
秀吉をはじめ、全国の諸大名はよく認識していたのです。
当時の日本は、今のアメリカのような強力な同盟国はありませんでした。
戦国時代から鍛えられた精鋭と世界の鉄砲の半数を保有する超軍事大国でした。
油断したら攻めてくる。
甘い顔をしたら舐められる。
そのような隣国や世界の国々の脅威の中で、
戦国時代、信長、秀吉、家康を代表する愛国者達が、
必死で守って来たのが日本の国体だったのです。
名護屋城博物館内