深川に住んでいた伊能忠敬は、地図作成の旅に出る際にかならず富岡八幡宮を参拝しました。
忠敬55才、測量の旅は第一次(1800年4月19日・地図の日)の蝦夷測量からはじまり、第十次1816年の江戸府内測量にまで及ぶ17年間です。
商人として才をなし、天文学に精通していた忠敬が人生の最後に情熱を燃やしたのが、日本の海岸線を正確に測量し、地図という記録に残すことでした。
忠敬が発願した当時は奇しくも、帝政ロシアが蝦夷地において圧力を強めていたときでした。
そして江戸後期は、多くの外国船が日本近海に出没していて、開国を迫られる事態になってゆきます。
このような時代背景を振り返ると忠敬の残した地図は国防に大いに役立ったことになります。
隣国が次々に植民地化され、東アジアにおいて、日本が唯一主権国家を守ることができたのは、伊能忠敬による正確に記録に残すという膨大で地道な作業のおかげではないでしょうか。
富岡八幡宮境内にある伊能忠敬像
富岡八幡宮
船越展望所から九十九島を望む
1813年、第八次測量で入った佐世保。
複雑な海岸線や九十九島を正確に測量している。