「後生の一大事」という紙芝居を以前つくりました。
お釈迦さまが弟子と一緒に托鉢修行の道中、
河原にかかる橋を渡っているところからお話が始まります。
このお話を紙芝居にしたいと考えたのは、
最近、あまりにもイジメによる若者の自殺が多すぎること、
経済的な理由なのか中年男性の自殺が多すぎることからです。
彼らが自殺を実行する前に、
お釈迦様のお話を知っていたならば、
死んだあとの苦しみが今の苦しみの10倍にもなることを知っていたならば、
恐ろしくて自殺なんかしようとは思わない。
安易に自殺をしようとする人はいないでしょうけれど、
いつまでも続く今の苦しさから解放されたいあまり、
「死ねば楽になる」と考えてしまうのではないのか。
つまり認識不足、
無知、
今の社会がそれを教えないからではないのか。
今、生かされていることの意味を知らないから、
社会が一番大事なことを教えないから、
現代人は自殺を軽く見ている。
死んだあと楽になれるなんて、
間違ったドラマなどが垂れ流されている。
自殺を美化する報道すらある。
イジメたヤツへの復讐とか、
わかってくれなかったクラスメイトや担任への悲痛なメッセージの手段が自殺、
それがどれだけ自分にとって割の合わない行為なのか、
大事なことを学校も社会も教えない。
人生には今生と後生があって、
人の一生がこの二つから成り立っていることを教えない社会。
教えない社会ではなく、
法的にも教えてはいけない社会であることすら問題しない社会。
イジメはいけないと学校で教えることはあっても、
自殺はなぜいけないのかをわかりやすく教えない。
「イジメられる生徒にも原因がある」なんて本心で考えている先生もいるようでは、
その学校からイジメはなくならない。
「イジメは犯罪である」
犯罪として先生が認識にていないから、生徒も軽い気持ちでイジメをしてしまう。
イジメの度が過ぎれば、法テラス、警察に相談です。
自殺からイジメに話が変わってしまいました。
言いたかったことは、
自殺に追い込むイジメも
神様ご先祖様からいただいた命を自ら断つという自殺も
神様目線、先祖目線では大罪であるのに、
今の社会は学校も親も社会もこどもに真剣に教えようとしない。
そこから社会の気運を高めないといけないということです。
では、紙芝居をご覧ください。
後生の一大事 ごしょうのいちだいじ
① お釈迦様が、托鉢の道中でのことである。
大きな橋の上で、辺りをはばかりながら一人の娘がたもとへ石を入れている。
自殺の準備に違いない。
② 娘のそばまで行かれたお釈迦様は、優しくその訳を尋ねられた。
相手がお釈迦さまと分かった娘は、心を開いて苦しみのすべてを打ち明けました。
「お恥ずかしいことですが、私はある人を愛しましたが、捨てられてしまいました。
世間の目は冷たく、やがて生まれてくるおなかの子供の将来などを考えますと、いっそ死んだほうがどんなにましだろうと苦しみます。
こんな私を哀れに思われましたら、どうかこのまま死なせてくださいませ」と、泣き崩れた。
お釈迦様は哀れに思われ、こう諭された。
③不憫なそなたには、例えをもって話そう。
ある所に、毎日、荷物を満載した車を、朝から晩まで引かねばならぬ牛がいた。
つくづくその牛は思ったのだ。
④『なぜオレは、毎日こんなに苦しまねばならぬのか、
一体自分を苦しめているものは何なのか』。
そして、
『そうだ。オレを苦しめているのは間違いなくこの車だ。
この車さえなければ、オレは苦しまなくてもよいのだ。
この車を壊そう』。
牛はそう決意した。
⑤ある日、猛然と走って大きな岩に車を打ち当て、
木っ端微塵に壊してしまったのだ。
それを知った飼い主は驚いた。
⑥こんな乱暴な牛には、余程頑丈な車でなければ、また壊される。
⑦やがて飼い主は、鋼鉄製の車を造ってきた。
それは今までの車の何十倍の重さであった。
その車に満載した重荷を今までのように毎日引かせられ、
以前の何百倍も苦しむようになった牛は、
今更壊すこともできず深く後悔したが後の祭りであった。
牛は自分を苦しめているのは車だと考え、この車さえ壊せば自分は苦しまなくてもよいのだと思った。
それと同じようにそなたはこの肉体さえ壊せば、苦しみから解放され楽になれると思っているのだろう。
そなたには分からないだろうが死ねばもっと恐ろしい苦しみの世界へ入っていかねばならないのだよ。
その苦しみはこの世のどんな苦しみよりも大きくて深い苦しみである。
そなたはその一大事の後生を知らないのだ。
⑧ 娘は自分の愚かな考えを深く後悔し、
お釈迦様の教えを真剣に聞くようになり幸せな生涯を生き抜いたという。