比叡山焼き討ちなど残虐な行為、
天下統一への野望、
光秀など家臣の恨みを買うほどの絶対君主、
これらは信長の本意なのでしょうか。
(以下、以前の記事をリニューアルしました)
熱田神宮を参拝しました。
熱田神宮は神剣「草薙神剣」(くさなぎのみつるぎ)を祀る由縁があります。
草薙神剣は日本武尊が父、景行天皇の命で東征に赴く際、
伊勢神宮の叔母の倭姫から託された剣です。
東国から帰った日本武尊は妃を娶りますが、
再び父から伊吹山の賊を平定せよとの命を受けます。
今度は剣を妃のもとへ留め置き伊吹山へと出発します。
日本武尊は伊吹山中で病に倒れ、
都へ帰る途中伊勢国能褒野(のぼの)で亡くなりました。
妃は託された草薙神剣を尾張氏一族の斎場としていた熱田の地にお祀りしたのが熱田神宮のはじまりです。
このような縁起を持つ熱田神宮に織田信長寄進の「信長塀」があります。
桶狭間の戦いの際、熱田神宮大宮司千秋季忠(すえただ)も参戦、
そのお礼に信長が寄進したのがこの「信長塀」でした。
現在は120mほど残っていますが、当時は本殿を守るように400mもありました。
織田信長の祖先は、今の福井県織田町(おたちょう)の劔神社で
代々宮司を務める家系でした。
劔神社も熱田神宮と同様に神剣を祀られた神社です。
織田信長の功績は、応仁の乱をきっかけに乱れた社会を
強い武力とリーダーシップで治めたことでした。
その結果、豊臣秀吉は天下統一を成し遂げ、
徳川家康は260年も続く安定政権を樹立させることが出来ました。
このことは「式年遷宮の復活」で見てとれます。
5回もパスしてしまった「式年遷宮の復活」は信長の願いでした。
信長は光秀とともに「本能寺の変」という自作自演を企て、
院政をひくことに成功しました。
そして遷宮は秀吉に引き継がれたのです。
更に家康の時代には20年サイクルを堅持させたのです。
戦乱で乱れた世を鎮めるための数々の「天下統一」への戦いは、
「天下泰平」のためにはどうしても通らなければならない道であり、
時代から求められた崇高な志だったのではないでしょうか。
下表は、式年遷宮の年表です