前、添乗などで何度か串本町の紀伊大島に行ったことがあります。

そこにはトルコ軍艦遭難慰霊碑やトルコ記念館があり、

明治23年9月に死者・行方不明者587名に及ぶ大海難事故があったことを知りました。

トルコ軍艦遭難慰霊碑

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明治天皇の表敬訪問のため、来日したトルコ使節団一行は目的を終え帰路つきました。

一行が乗船のトルコ軍艦エルトゥールル号は和歌山県串本の紀伊大島沖を航行、

台風で難破してしまいます。

 

事故現場に駆け付けた島の村民たちは賢明の救助活動を行いました。

 

海岸にうち上げられた瀕死の乗組員を背負って崖をよじ登り、

近くの寺に運んで懸命に救命措置を施した村民は、

それぞれの家からわずかに蓄えていた食糧を持ち寄り乗組員に食べさせました。

村民の献身的な救助の甲斐あって、69名の命が助かったのです。

 

この遭難事故に心を痛めた明治天皇が、犠牲者を手厚く葬り、

生還者をトルコに送り届けることを指示したことで、

国民から一挙に多額の義援金が集まることになります。

日本の軍艦2隻によって、無事、本国に送り届けられた生還者たちは、

日本人が自分たちにやってくれたことを伝えました。

それがトルコの人々の胸を打ったのです。

トルコの教科書にも載るほどになります。

露土戦争で長くロシアに苦しめられてきたトルコの人々は、

その後の日露戦争で日本が勝利したことで、

日本への尊敬を増していきます。

 

 

そんな日本人へのトルコ人による感謝が具体的なかたちとなったのは、

実にそれから95年後の1985年3月イラン・イラク戦争が激化したテヘランでのことです。

 

イランの首都テヘランでは連日のように空襲がおこなわれる事態、

さらに3月17日に、イラクのサダム・フセイン大統領が、

イラン上空を「戦争空域」に指定し、

「48時間経過後、イラン領空を飛ぶものは、軍用・民間を問わず、すべて撃墜する」と宣言。

テヘランに駐在していた外国人はパニックに陥ります。

欧米各国は次々と救援機を派遣し、自国民の救出します。

もともとその通常便のチケットを持っていた日本人であっても、

空港のカウンターで、「ノー・ジャパニーズ」という一言で搭乗を断られてます。

 

日本大使館は日本航空に救援便派遣の要請をおこないました。

しかし、戦争当事国からの安全保障が取れず、救援機を飛ばすことが出来ませんでした。

爆音鳴り響く異国で、200人以上もの日本人が取り残されたのです。

彼らはその時、異国においての非常事態の際の現実を、目の当たりにしたのです。

 

この時、奇跡が起きました。

大使の依頼を受けたトルコ在住の商社マン、伊藤忠の森永堯イスタンブール事務所長が

長く親交を結んでいたトルコのオザル首相に頼み込み、

トルコ航空の救援機派遣を実現します。

パイロットや客室乗務員にとっても命がけのフライトです。

そして、タイムリミット直前、

215名の日本人を乗せたトルコ航空機は危機一髪の脱出を果たすことができました。

 

 

日本人はなんて徳のある国民なのでしょうか。

憲法により、自衛隊からの救助は受けれない。

ナショナルフラッグの航空会社でさえも救援機を飛ばせない。

絶体絶命、打つ手なしの状況で、

遠い異国であるトルコが救助の手を差しのべてくれたのです。

それも両国の先人の方々が良好な関係をつくってこられたおかげです。

 

 

 

 

 

 

 

 

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