鎌倉幕府崩壊、南北朝に分裂、室町幕府成立、応仁の乱、戦国時代へと激動の時代がありました。

なぜこのような大変な時代になっていったのか?

学校の歴史教科書を読んでもさっぱりわかりません。

 

わかりにくいのには理由があるようです。

 

人気ブログ「ねずさんのひとりごと」では、この時代の背景がわかりやすく説明されています。

 

 

 

ねずさんのひとりごと「国体を取り戻す」をぜひご覧ください。

http。://nezu3344.com/blog-entry-2621.html

あわせてこちらもぜひご覧ください。

ねずさんのひとりごと「建武の中興のお話」

http://nezu3344.com/blog-entry-1788.html

 

 

元寇の危機を超えてからも日本は国難の連続でした。

 

歴史のおおまかな流れは次の通りです。

 

「田分け」という相続制度の破綻により鎌倉政権が、事実上崩壊。

後醍醐天皇は分割された農地を公地として戻すと宣言。

天皇自ら政治を行う。

親政(天皇自ら政治を行うこと)は、神聖なる存在から施政者に身分を落したとみなされ反対勢力を生む結果になる。

反対勢力の中心である足利尊氏が持明院統の別な天皇(北朝)を擁立します。

北朝が親任する室町幕府が誕生します。

室町幕府三代将軍、足利義満は明との貿易で巨万の富を得るようになります。

金権政治で貧富の差が生まれます。

日明貿易で物だけでなく大陸や半島から多くの人が入るようになります。

彼らの常識は、日本人の常識と異なるので、その彼らが、日本に住み着き、中には、日本人のような顔をして、日本人の常識では計り知れないような残酷な事件を引き起こすようになります。

それが次々と行われれば、自衛のために人々は武器を手にします。

それが集団化すれば、巨大な一揆勢力になります。

この時代、一向一揆衆が国司を追い払って、自分たちの自治領を築いたりもしています。

ところがその足利政権は、自分たちがしていることによって国が荒れていることが理解できません。

自分たちだけは、交易で豊かだからです。

政府が空気の読めない自分本位になれば、更に世は乱れてゆきます。

そして必然的に起きたのが「応仁の乱」でした。

 

応仁の乱で都は荒廃し、式年遷宮を5回分もパスするほどの大混乱になったのです。

 

 

 

 

 

(相国寺内「承天閣美術館」には北山文化と東山文化の宝物が収められています)

 

さて、足利義満は日明貿易において自らを日本国王の名乗っています。

このあたりから天皇をないがしろにする国家になっていったのでしょうか。

舞台となった相国寺では、典雅な公家文化が再現されました。

(相国寺の塔頭寺院に金閣寺、銀閣寺があります。)

 

そして応仁の乱の混乱期のこと。

相国寺の僧で連歌師でもある飯尾宗祇は、藤原定家宅の書庫に230年間も眠っていた「百人一首」を預けられます。

 

連歌の大成を志す飯尾宗祇は、「百人一首」を持参して、和歌の権威である東 常縁(とう つねより)を頼りに訪ねたのではないでしょうか。

 

東常縁は宗祇の持ってきた「百人一首」の解釈を伝えます。

 

そして宗祇は陛下の信頼の篤い三条西実隆へと伝えられたのです。

(和歌の解釈を伝えることを古今伝授と言います)

 

この「百人一首」こそ、日本の国のあるべき形が歌に込められていたのです。

 

 

その後、「百人一首」は、戦国大名に伝わることになります。

 

 

 

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