大垣市の北西、青墓地区・赤坂地区には古代道「東山道」や「中山道」が走っています。
東山道は近江国から陸奥国を結んでいました。
東山道の歴史は大変古く、天武天皇の時代にはすでに整備されていたようです。
ヤマトタケルなど天皇の御子たちは、東征のおりに東山道近くを歩いたかもしれません。
桓武天皇の時代、征夷大将軍の任じられた坂上田村麻呂が蝦夷征討のおりにも東山道を利用したかもしれません。
このあたりは、山際で標高も高く、古墳時代(3世紀半ば過ぎから7世紀末頃)には、このあたりにも古墳がたくさん作られました。
この古地図は三河国の猿投神社に所蔵されていたものです。
養老元年は西暦717年ですから、今から約1,300年前です。
この地図によると濃尾平野のほとんどが海だったことになりますが、果たして本当でしょうか。
西暦672年の壬申の乱のときは、大海人皇子の湯沐邑(ゆのむら・皇族が所有する領地)である東海道や東山道沿いの諸国が大海人皇子を助けるために兵を動員しています。
ですから、この古地図は更に古い時代だと推測できます。
さて、大海人皇子(のちの天武天皇)も通ったであろう東山道沿いにある青墓地区ですが、これだけ古い歴史があるのにもかかわらず、地元に住んでいる人すら知らないことがいっぱいあるのではないでしょうか?
戦後教育を受けた私たちは、地理とか歴史とかを充分に習っていません。
地元や近隣の地名の由来すら充分に教わることはありません。
戦前の教育は、地元の地名の由来や歴史、そのお隣の町の地名の由来や歴史というように身近から習うことで、子どもたちは日本の歴史や世界の歴史へと興味が湧いていったそうです。
戦後の私たちが受けた歴史は、年号と出来事名を覚えるだけです。過去から現代へと時代背景もついてゆけないまま進み、近代になって近代は時間切れで流されます。学校の先生に原因があるのではなく、子どもが意図的に興味を持たないように操作されているようです。
地理も日本史も世界史もバラバラで教わるので頭の中で繋なげるのが困難になります。
それでは興味を持てないまま挫折してしまうことになります。
身近な地域から徐々に広範囲へ、現代から時代を遡るように、世界の歴史と同時並行で、地理(空間)と歴史(時間)を一緒に学んだ方が断然に興味がわくと思います。
ところで、青墓地区や赤坂地区は古墳があるぐらいですから、美濃の中でも特に歴史が古く、あまり知られていない多くの歴史物語が埋もれている地域だと思われます。
上の写真は、大垣市昼飯町にある「ぶらりアートギャラリー」の内装空間です。
すぐ南、歩いて3~4分のところには、東海地区最大級の古墳「昼飯大塚古墳」があります。
「ぶらりアートギャラリー」ではこの「昼飯大塚古墳」をテーマに地域を知って盛り上げようという活動拠点の一つにになることをめざしてみえます。
歴史に興味を持つことは、戦後の自虐的な史観を植え付ける教育によって病むことが多くなった日本人の精神を強くすることだと思います。
戦後教育を受けた私たちは、日本の正しい歴史を知ることで、日本やご先祖様を誇りに思えるようになります。
ご先祖たちが作ってきた日本の歴史に誇りを持つことは、今に生きる日本人にとってうれしいことです。
そして、地域の関わりが薄らいでいる今、もっと地域を大事にしようと思えるようになるのではないでしょうか。
昼飯大塚古墳
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<郷土に感謝 誇ろう日本!>
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