石山寺の前の桟橋から、瀬田川・琵琶湖リバークルーズを楽しむことができます。
1階に約50人、2階デッキに約50人が乗れます。
乗船した日は、雨の降っていないさわやかな日でしたので、デッキにある椅子にに腰かけ、ガイドさんの案内を聞きながら45分間のクルーズでした。
途中、瀬田の唐橋をくぐり、近江大橋の近くで折り返します。
途中、瀬田の唐橋をくぐります。
瀬田の唐橋は古来より「唐橋を制する者は天下を制す」といわれ、京を都を守る者にとって東国からの敵を迎え撃つ最後の砦であり、壬申の乱では、大友皇子と大海人皇子の最後の決戦場となりました。
大友皇子方が、橋板を外して大海人皇子方を待ち受けたが、突破されて滅んだとされています。
比叡山がこの角度から見ると、頂上部が二つのこぶになっていることが良くわかりました。
向かって左側のこぶは京都側、右側のこぶは滋賀県側で延暦寺の諸伽藍が点在します。
この浮世絵は歌川広重の東海道五十三次「粟津晴嵐」(あわずのせいらん)です。
(松林を縫って走る東海道の先に膳所城が描かれています。)
瀬田の唐橋から膳所城に向かう一帯は粟津という地名で、広大な松林が続いておりました。
晴れたある日、湖上を渡る風が松林を吹き抜け、悲しげな口笛を鳴らし嵐のようだったことから、この名がついたと説明がありました。
現在は、東レの企業城下町となっています。
こちらは膳所城址です。
石垣がみえます。
膳所城は、慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いに勝利し名実共に天下人となった徳川家康が、翌、慶長6年(1601年)東海道の押さえとして、大津城を廃し膳所崎に城を築かせました。
江戸城、大坂城、名古屋城など天下普請として江戸幕府が諸大名に号令し築いた城の第1号となります。
縄張りは城造りの名手と言われた藤堂高虎設計で湖の中に石垣を築き、本丸西隅に4重4階の天守が築かれました。
家康がこの地を選んだ理由として、昔より「瀬田の唐橋を征するものは天下を征する」と言われた瀬田の唐橋に近い場所であったからであると言われます。
初代に入城したのは、大津城主だった戸田一西(かずあき)です。
戸田一西は関ケ原の合戦では徳川秀忠軍に従っていました。
真田昌幸の信濃上田城攻めこだわる秀忠を、ただ一人反対したのが戸田一西です。
のちに家康から賞され大津藩主、膳所藩主となりました。
一西は藩政安定のため、紅しじみ漁を奨励しました。
(今でもこの界隈は、湖国料理としてしじみが名物です。)
1604年、一西は死去し、長男氏鉄(うじかね)が跡を継ぎます。
そして、氏鉄は1635年、大垣藩10万石の藩主として入城することで、大垣と膳所とはここにご縁があります。
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