丹波亀山城は天正5 年(1577)頃、明智光秀により、丹波攻略の拠点とするために築城されました。

保津川と沼地を北に望む小高い丘(荒塚山)に築かれましたが、正確な史料が残っていないため全容は分かっていません。

光秀は近隣の村から人を呼び寄せ、城下町を形成しました。

天正8 年(1580)に丹波国を拝領した光秀は、本格的な城下町の整備と領国経営に着手しますが、そのわずか2 年後に「本能寺の変」が起こります。

亀山城はその後、羽柴秀俊(小早川秀秋)によって修築され、慶長15 年(1610)岡部長盛の代に天下普請により近世城郭としての亀山城が完成します。

この築城にあたっては城づくりの名手・藤堂高虎が縄張りを務め、五重の層塔型天守が造営されました。

 

明智光秀の丹波平定

天正3年(1575年)、天下統一を目指す織田信長は、明智光秀に丹波平定の命令を下します。

丹波には八上城(篠山市)の波多野秀治、黒井城(丹波市)の萩野直正などによる反信長前線が形成されていました。

彼らの激しい抵抗に苦心した光秀は、天正7年(1579年)、丹波平定が完了するまでに約5年という年月を必要としました。

 

現在の亀山城址

明治時代の廃城令で取り壊された亀山城は、大正8年に城址を大本(出口ナオ、出口王仁三郎を教祖とする)が購入、昭和10年の国家による弾圧を受けながらも乗り越え、城址を整備復元をし現在に至ります。

 

 

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