天龍寺の庭園を見学いたしました。

天龍寺は足利尊氏が南北朝の戦で、吉野で崩御された後醍醐天皇の菩提を弔うために開山した臨済宗寺院です。

足利尊氏が帰依した夢窓礎石を迎えて建立されました。

 

この鎌倉幕府の崩壊、南北朝時代、室町幕府成立のこの流れは、学校で習う教科書ではわかりにくい時代背景があります。

なぜ鎌倉幕府が崩壊したのでしょうか、後醍醐天皇はなぜ建武の中興を先導することになったのでしょうか、

室町幕府の行く末は応仁の乱という大混乱を招く政権になります。

 

ねずさんおひとりごとでは、わかりやすく学ぶことができます。

http://nezu3344.com/blog-entry-1788.html

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天龍寺の歴史(天龍寺ホームページより引用)

足利尊氏を開基とし、夢窓疎石を開山として開かれたのが天龍寺で、その目的は後醍醐天皇の菩提を弔うため暦応2年(1339)に創建された。

造営に際して尊氏や光厳上皇が荘園を寄進したが、なお造営費用には足りず、直義は夢窓と相談の上、元冦以来途絶えていた元との貿易を再開することとし、その利益を造営費用に充てることを計画した。これが「天龍寺船」の始まり。

造営費の捻出に成功した天龍寺は康永4年(1345)に落慶した。南禅寺を五山の上として天龍寺を五山の第一位に、この位置づけは以後長く続いた。

火災と兵火
かつて広大な寺域と壮麗な伽藍を誇った天龍寺は度重なる火災に見舞われた。大きなものだけで延文3年(1358)、貞治6年(1367)、応安6年(1373)、康暦2年(1380)、文安4年(1447)、応仁2年(1468)、文化12年(1815)、元治元年(1864)の8回となる。

この文安の火災と応仁の乱による被害は大きく、天正13年(1585)に豊臣秀吉の寄進を受けるまで復興できなかった。その後秀吉の朱印を受けて順調に復興するが、文化年間に被災、この再建途中の元治元年、蛤御門の変に際して長州軍の陣営となり、兵火のために再び伽藍は焼失した。

以後は歴代の住持の尽力により順次旧に復し、明治9年には臨済宗天龍寺派大本山となった。しかし翌明治10年(1877)には上地令により嵐山53町歩を始め(このうち蔵王堂境内175坪をのぞく)亀山全山、嵯峨の平坦部4キロ四方の境内はほとんど上地することとなった。その結果現在の境内地はかつての10分の1、3万坪を残すこととなっている。

 

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