京都嵐山の渡月橋より少し上流には葛野大堰(かどのおおい)があります。

5世紀の後半に葛野地方に定住した秦氏(はたうじ)は、先進の土木工事技術を駆使して桂川に大きな堰(せき)を築造し、水路を造成し、畑を開拓しました。

古代の堰は貯水ダムです。

堰で水をせき止めて貯水し、流れとは別の水路を設けて水量を調節し、洪水を防ぐと同時に農業用水を確保することができました。

これにより嵯峨野や桂川右岸が開拓され、桂川流域で農業が盛んに営まれるようになりました。

秦氏はその後、太秦に本拠地を置きます。

 

さて、京都を圧倒的な技術力と財力で開拓した秦氏は渡来人です。

この時代に現中国大陸を支配したのは秦の始皇帝であり、ルーツは古代イスラエル民族です。

 

100年ほど経った聖徳太子の時代には、秦氏の族長的人物に秦河勝(はたのかわかつ)がいました。

秦河勝は、聖徳太子のブレーンとして活躍し、また蘇我馬子と物部守屋が戦った丁未の乱(ていびのらん)では、物部守屋の追討戦に従軍して聖徳太子を護りつつ、物部守屋の首を討つという大活躍をしています。

秦河勝から影響をうけた聖徳太子も、秦氏が持ち込んだ古代東方キリスト教(景教)を信仰しています。

 

 

秦河勝はまた、富士山麓で巣食うイモムシを信仰する邪教を退治する活躍をみせます(日本書紀に記述)。

(常世神(とこよのかみ)・・・静岡県の富士市か富士宮市のあたりに大生部 多(おほふべの おほ)という者が現れて、ちょっと変わった種類の大きなイモムシを常世(とこよ)の神だと称して、イモムシ信仰の宗教団体を作って、「なんでも願いが叶うから」と言って、信者に全財産を寄進させた。)

 

 

もし、秦河勝の邪教退治がなければ、日本は仏教に代わって人の財産を蝕むイモムシ教が蔓延ったかもしれません。

このあたりの歴史を「ねずさんのひとりごと」ではわかりやすく解説しています。

http://nezu3344.com/blog-entry-3819.html

 

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