後醍醐天皇はなぜ鎌倉幕府を打倒し「建武の中興」を行ったのでしょうか。
それは、鎌倉幕府の「田分け」と呼ばれた均等配分方式の相続制度によってもたらされた民の窮状をなんとかして救いたいという思いから始まったものです。
そのために後醍醐天皇は、「天皇は直接政治を行わない」という日本の古くからの統治形態「シラス」を破ってまでも、親政を断行しました。
後醍醐天皇への義を尽くすため、知力でもって鎌倉幕府の大軍と立ち向かったのが楠木正成でした。
幕府軍を翻弄させる楠木正成の戦いぶりに蜂起した足利尊氏や新田義貞などの大物豪族たちも幕府に反旗をひるがえし、尊氏が京都守護である六波羅探題を攻め落とすと、そのわずか15日後には、義貞が鎌倉の北条氏を滅ぼします。
このあたりの時代背景や史実をねずさんのひとりごとではわかりやすく説明されています。
楠木正成と七生報国(前編)
http://nezu3344.com/blog-entry-3956.html#more
楠木正成と七生報国(後編)
http://nezu3344.com/blog-entry-3957.html
楠木正成はその後、足利尊氏により湊川で終焉をむかえるのですが、最後まで後醍醐天皇への義を通しました。
その楠木正成の像が皇居前広場にあります。
京都から東京への奠都、皇居前広場には最後まで後醍醐天皇に義を尽くした楠木正成の銅像。
このあたりに大いなる歴史の秘密があるようです。
戦後教育では楠木正成をあまり教えない理由もわかってきます。
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