日本二十六聖人記念碑は、1597年2月5日(慶長元年12月19日)26人のカトリック信者を豊臣秀吉の命によって長崎で磔の刑に処されたことを後世に残すための記念碑です。
(後方は日本二十六聖人記念館)
この処刑のきっかけとなった経緯をねずさんのひとりごとではわかりやすく解説されています。
慶長元(1596)年
スペインの貨物船、サン・フェリペ号が、荷物を満載したまま遭難し、土佐の浦戸に漂着したのです。
救助した船員たちを、秀吉の五奉行の一人である増田長盛が取り調べました。
そこで驚くべき事実が明らかになります。
なんとサン・フェリペ号の水先案内人が、増田長盛に世界地図を見せ、次のような証言をしてしまったのです。
スペイン国王はまず宣教師を派遣し、
キリシタンが増えると次は軍隊を送り、
信者に内応させてその伝道地の国土を征服するから、
世界中にわたって領土を占領できたのだ。
その報告を受けた秀吉は、即座にキリシタン26名を逮捕しました。
そして彼らを長崎に送り、「キリシタンを続けたいなら外国へ出て行け。日本に残りたいなら改宗しろ」と迫りました。
迷う26名に対し、長崎のイエズス会は、この26名の死罪を長崎奉行に申し出ます。
イエズス会の腹はこうです。
26名の信者をイエスの十字架になぞらえて見せ物にし、間違いなく天国に行くことができたと宣伝する。
こうすることで、キリスト教徒としての栄光に輝く姿を印象づけ、信仰による団結心をたかめる。
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通説では秀吉の命令によって処刑されてことになっていますが、真相はイエスズ会のプロパガンダなのかもしれません。
宣伝工作(プロパガンダ)は現代もよく利用されています。
主体思想、アイヌの先住民思想など。
いずれも宗教的な思想として結果、日本の国体を脅かす(国家分裂)存在となっています。